朱子と王陽明の思想について

申し訳ありません!質問のメールを見落とし、今「うわあああああぁぁぁぁ」ってなりながら、返信しています。


朱子は宋の時代に儒教の精神・本質を明らかにして体系化を図った儒教の中興者で、その思想は朱子学とも呼ばれています。この辺は大丈夫ですかね?

朱子の価値としては、「それまでばらばらに学説や書物が出され矛盾を含んでいた儒教を壮大な思想体系にまとめあげた」というところが一番です。

その際に用いられたのが、「理」という概念ですね。「理」を簡単に言えば、「この普遍的な原理や本質」となります。朱子は、理は万物に存在し、自己と社会、自己と宇宙は、「理」を通して結ばれ、理への回復を通して社会秩序は保たれるとしたのです。


まぁ、「理」はアリストテレス的にいうと、エイドスみたいなものですね。

この他に、朱子は「気」という万物が生成される材料となる物質の存在も唱えています。なので、これはアリストテレス的にいうと、ヒュレーで良いでしょう。


そして、朱子は万物の生成を、この「理」「気」から説明しました。なので、これを「理気二言論」といいます。

この世のすべてのものは「理」と「気」でできています。もちろん、人間だって例外ではありません。では、人間の「理」とは?人間の「気」とは何なのか?


朱子は、人間の「理(本質、本性)」を善と考えました。つまり、人間の心の本性(これを本然の性といいます)は善です。しかし、これは人間の「気(すなわち、肉体)」から生じた感情や欲望(これを気質の性といいます)によって、覆われていると考えたのです。


そこで、朱子は本然の性である善を覆っている気質の性を矯正し、何とかして本然の性を養っていかなければならない、と主張します。


そのための方法が「感情や欲望を抑制して、雑念を振り払うこと」です。これを「居敬」といいます。次に。宇宙の普遍的な「理」を学ぶことで、人間の心にある本然の性を育てていこうとします。これを「窮理」または「格物致知」といいます。


「居敬」と「窮理」を合わせて、「居敬窮理」です。すなわち、人間は生活において感情や欲望を抑制し、学問を修養して、善の心を育てよう!という生活スタイルを提唱する訳です。言葉にしてみると、物静かな学者のような生活ですね。


ちなみに、朱子の「人間の心の本性(本然の性)は天から授かった理である」とする説は「性即理」と呼ばれます。宋代の儒学者である程伊川が提唱した説をうけついでいるのですが、程伊川は細かいので、覚えなくて大丈夫だと思います。


これに対して、明の時代に朱子学を批判的に受け継ぎ、陽明学を創始したのが王陽明です。


王陽明は「読書(学問の修養)だけで理に到達できる訳ないやん!日常生活や仕事の中で色々な判断を下して心(すなわち、人間の理)を育てて行かなアカン!」と主張しました。


朱子とは違い、王陽明は「人間の心は、良い部分も悪い部分も含めて理である」と考えました。この考え方を「心即理」といいます。


王陽明は、「人間は確かに悪いことも考える!でも、人間は生まれながらに『善悪を判断する能力』も持っている!」と考えます。この能力のことを「良知」といいます。


王陽明は、「人間は色々な場面でやましいことも考える!でも、この良知を生かして正しい判断をし、心の善い部分を伸ばしていこう!」と主張します。このように現実場面で良知を働かせて良い行動を実践することを「致良知」といいます。


良知は人間が生まれながらに持っている能力ですから、すべての人が良知を持っていることになります。ということは誰でも致良知ができるはずなのです。それで王陽明は「街中の人、すべてが聖人」などと言ったりするのです。まぁ、正確には「聖人になれる可能性がある人」ぐらいの意味でしょうが。。。


ちなみに、王陽明は良知と行動は(知ることと行い)は本来不可分なものと説きます。要は、「知識に行動が伴ってこそ、本当にそれを会得したといえるだろう」と。これを「知行合一」といいます。だから、いくら学問を修養して頭で解ってても、実践が伴わなければ、王陽明的には理解したことにならないんですよね。


まとめると、

朱子=バラバラだった儒教の思想をまとめあげた偉い人、でも思想は学者チック

王陽明=朱子の学説を受け継ぎつつも、実践重視

ということになります。


せっかくご質問いただいたのに、お返事が遅くなってしまい、大変申し訳ありませんでした。また、何かあればご質問いただければと思います(今度は見落とさないようにしますので…)。


よろしくお願いいたします!

質問への回答(後藤貴士)

質問箱へいただいた質問の回答をしようと思います。

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